NAMBA69の難波章浩、Hi-STANDARD活動休止から
今日まで、そして少し未来を語る!

新ミニ作『LET IT ROCK』を発売したばかりのNAMBA69の難波章浩(vo,b)にここ10年を、音楽的変遷を中心に振り返ってもらった。新ミニ作をメインとした取材記事は、現在発行中のGrindHouse magazine Vol92で読んでほしい。



<Hi-STANDARD、そして活動休止へ>

――日本において、いわゆるインディーズなるものを商業的に成立させ、引っ張っていったのがHi-STANDARD(ハイスタ)だったと思うんだ。ハイスタが動けば人が動く、まるで民族大移動のようだった。
「それがシーンと言えばシーンだったんでしょうね」

――あの当時、はたから見ててあの状況はまさに喧噪、狂騒曲だと感じてたよ。それは商業的な部分で大きなプラス、メリットだったと思うけど、同時にスゴく難しいこと、大変だったことも多かったんじゃない? そのバランスがとれなくなってくると人間って、ちょっとひずみとかきしみとかが出てくる。あの難ちゃんはどうだった?
「うーん…最初からボクたちインディーズじゃなかったんです。音源発売がTOY’S FACTORYからでしたから。『LAST OF SUNNY DAY』(94年)という初ミニ作は、インディーズにありがちな、作っておいて出ないというパターンだった。それでもレコ発ライヴを下北沢SHELTERで2回やりましたから(苦笑)。で、COCOBATのTAKE-SHIT(b)くんがTOY’S FACTORYを紹介してくれたんですね。その流れから『LAST OF SUNNY DAY』をTOY’S FACTORYから出してもイイよと言われて。だけどこの作品をインディーズで出すというのがボクたちの目標だったから、TOY’S FACTORYの名前は冠さないでボクたちの名前をつけ、自分たちでやってます風にして出したんです。それがPIZZA OF DEATHって名前(笑)。実はPIZZA OF DEATHって最初は名前だけで、運営してたのはTOY’S FACTORYだったんですね。だけど、次の『GROWING UP』(95年)を出した頃から、インディーズじゃなくメジャーでやってやろうじゃないという気持ちになって。当時ボクたちがやってたシーンにはCOKEHEAD HIPSTERS、ABNORMALS、WRENCHとかがいたんですけど、ちょっと先にメジャーからデビューしたCOKEHEAD HIPSTERSがスゴく人気が出たんですね。そういうやり方もあるんだと思い、ボクたちもメジャーでやってみたら面白いかもということになり、『GROWING UP』はTOY’S FACTORYの名の下でリリースしたんです。とにかくそんなスタートだった。で、NOFXが来日したとき『LAST OF SUNNY DAY』をファット・マイク(vo,b)に渡したらスゴく気に入ってくれて、『GROWING UP』を作る前にオマエたちと契約したいと言ってきたんです。当時、日本でメジャーから作品を出してて海外のレーベルからも作品を発売してるという例はなかったけど、そんな前例のないことをTOY’S FACTORYは許可してくれて、ライセンス契約という形でFAT WRECK CHORDSより作品を出させてくれたんです。そしてファット・マイクのプロデュースでサンフランシスコでレコーディングして『GROWNIG UP』が完成し、その作品で爆発しちゃったんですよね」

――さすがにあそこまでの爆発っぷりは想像できなかったでしょ?
「いえ、前例のないことだったから熱は感じていたんで、スゴいことになるだろうなと思いました。当時のボクたちは海外から逆輸入みたいな捉え方もされてたんですけど、下北沢のライヴハウス屋根裏で、お客さん5人というところから地道に始めてるんです。そこからSHELTER、そして新宿LOFT。当時はそこがマックスだったんですよね。それがレコーディングが終わって帰ってきたら、『GROWING UP』を出す前に渋谷CLUB QUATTROがとんでもないことになり、全国を回ったら各地でソールドアウトの連続。とんでもないことになってるなぁと。当時、東京でスタンディングのライヴハウスでマックスだったのが(旧)赤坂BLITZで、地方にはスタンディングのライヴハウスがそんなになかった時代だったんです。ボクたちがその後何周かツアーをやるようになり、それぐらいの規模で地方も回りたいとなったとき、布袋寅泰さん(BOØWYほか)クラスの人たちもスタンディングでやるようになってきたんです。たぶんボクたちの影響か、世のなかの流れで。そういうことをみんながやり始めたら、スタンディングのライヴハウスをもっとほしいと世のなかが動いたのがわかったんです」

――ホントにGrowing Up(=成長する)しちゃったんだね(笑)。
「しちゃった(笑)。Growing Upしちゃって、『ANGRY FIST』(97年)を出し、そこからアメリカのWarped Tourに参戦し、NOFXと回ってるときにファット・マイクのツアーバスに呼ばれたんです。“このままTOY’S FACTORYで続けるのか? (印税を)何%もらってるんだ?”とか聞かれ、2時間ぐらいプロモーションの仕方とかレクチャーされて(笑)。マイクに言われたことをほかのメンバーに話したら、最初はできないという感じだったんです。だけどボクはやってみたいと思ってしまったから、日本に帰ってからもみんなとゆっくり話し合った。実は『ANGRY FIST』を出した後のバンドの状態ってよくなかったんです。ここで力つきるかというぐらいだった。やっぱりプレッシャーもあったんですよね。だけどそこでメンバー間の絆がものスゴく強くなりましたね。PIZZA OF DEATHを現実に自分たちで運営する形をとってみようかということをほかの二人も納得してくれて、それでTOY’S FACTORYの当時の社長にお願いしにいったんです。ボクたちは当時TOY’S FACTORYの看板バンドになってたわけで、許してもらえるかわからなかったんですけど。土下座状態で自分たちのレーベルを作って独立させてくださいと頭を下げたら、“キミたちがイイと思える道ならイイと思うよ。そこをボクがさえぎる理由はないな”と言ってくれたんです。そうしてお別れし、ボクたちはPIZZA OF DEATHを設立するんですよね。下北沢に一軒家借り自分たちで大工をしたりして、夢を持って始めるわけです。ボクたちスゴいことになるなぁ、このままみんなで頑張ろうと。それで『MAKING THE ROAD』(99年)を作った。ストイックで大変でしたけど、楽しいレコーディングで、ものスゴくイイ作品ができた。レコーディングが終わり疲れてたのもあったんですけど、そのまま全国ツアーに突入したんです。そのツアー中にだんだんバンドのバランスが崩れてきた。ライヴは盛り上がるしスゴくイイんだけど、楽屋のムードがあんまりよくない。後半に差しかかった頃には3人ともあんまり口もきかなくなり、楽屋でぶつかるようにもなった。それが終わってひと段落し、AIR JAMに向かうんですけど、こっちの状態はよくないのにいろんなイイ話がくるわけですよ。NOFXとの世界ツアーをオーストラリアから始めるぞとか。海外でも人気が出てきてるからヘッドライナーで回れるんじゃないかとか。ボクはとにかく海外で活動したかったから、FAT WRECK CHORDSとの契約は夢が叶った瞬間だったけど、さらに自分たちで世界ツアーを回れるような状態になりたかったんです。だけど健くんも自分で言ってたようにさらに体調が悪くなっちゃったから、それをやるわけにはいかない。健くんはそのことを大っぴらにしたくないってことだったんで、ボクはそれを守り言わずに、ファンに心配させないようにしながら、さりげなく活動が止まるわけです。リハーサルとともにライヴ活動もなくなる。だけど一発だけ札幌でライヴが決まってて、そこで完全に健くんがライヴをやるのがイヤになっちゃった。そこで一度活動を止めようということになったんですけど、だけどAIR JAMがあった。健くんにはAIR JAMをやれないならやらなくていい、やれなかったらボクたちそこで止めると言ってて、健くんはAIR JAM当日のライヴ15分前ぐらいまで隣のホテルの部屋でやれるかやれないか考えてたんです。で、彼は頑張って出てきてくれて、ワンステージをなんとかやるわけですけど。ボクはこのライヴが最後になる可能性が高いぞ、もしかしたら1曲で終わるかもしれないと思ってた。そこで完全に活動が止まるわけです」

――『MAKING THE ROAD』発売後、バンドの状況が悪くなったわけじゃない。いろんなものを手にしたけど、内部でいろんなことがぎこちなくなる瞬間って、やってる当人たちが一番ツラいと思う。しばらくこの状況から逃げたい、休みたいと思ったことはあった?
「ボクはなかったですね。ハイスタっていうのはボクの人生だったんで、どんなことがあってもみんなでやっていくっていうのが目標だった。あのままTOY’S FACTORYでやってればよかったかなとか、PIZZA OF DEATHを作ってそれが健くんにとってスゴく負担が大きくなっちゃったんだなっていうのを悔やんだことはあります。ものスゴく悔やみ、いろんなことを考えたんですけど…後悔はないですね。そんな人生もあるんだと」



<活動休止以降のHi-STANDARDへの想い、そしてソロ活動へ>

――ハイスタが活動休止した後、沖縄の青い海をバックにバンザイしてる難ちゃんの写真を見てビックリしたのを憶えてるよ(笑)。沖縄には自然もあるどけ非常に特殊な環境がある。米軍からくるアメリカンカルチャーと日本のカルチャーと、伝統的な琉球文化が混ざって。なんで沖縄だったの?
「ボクはハイスタをやるために東京に出てきた。それ以外で東京は必要なかった。バンドがない状態の東京ってあまりにもしっくりこなかったんですよ。ちょっと表に出て人に会えば“なんでハイスタやんねえの?”とか言われるし。ハイスタの3人が固まってない状態での東京っていうのは本当にキツかったんでね」

――そうした環境から逃げた…と言えるのかな?
「ボクはハイスタの活動休止って3年ぐらいだと思っていたから、その間リセットしようと思ったんですね。あまりにも周囲の変動がスゴかったから。よし、これからいくぞ!ってピークになったときに活動が止まったから。その衝撃っていったら…ハッキリ言ってボク自身もマイってた。同時に落ち込みましたね。ハイスタは活動休止だから、じゃどうすっかなと。健くんも、そんな状態なのにPIZZA OF DEATHを続けるって言う。当時は関係がよくなかったから、ボクとツネ(恒岡章/ds)は離れて、とにかく全部リセットしようよとなった。ハイスタのことを考えないでやってみようと。だけど健くんが言ってたことで印象的だったのが“ハイスタが戻ってきたときのために、オレはPIZZA OF DEATHを守っておくよ”ってこと。当時、ボクはその言葉を信じた。まあ休止は3年ぐらいかなと思ってたら、8年になっちゃって、さすがにこれはヤバいぞ、このままなにもないなら解散しないとってことで、解散ライヴをやろうという話まで出た。これ以上ファンを待たせられないと。そこに東日本震災があって、あまりにも特殊な形でしたけど、ああいう形でやることになった。そして結果、健くんが当時言ってた“ハイスタが戻ってきたときのためにPIZZA OF DEATHを守っておく”という言葉が、その通りになった。健くんがKEN YOKOYAMAとしてシーンのトップで頑張ってきたからこそ、きっと今のハイスタもあるんだろうし。もしくは、メロディックパンクロック・シーンというものが今あるのも、KEN YOKOYAMAがしっかりと頑張ってきたからこそだと、ボクは思えるんですよね」

――活動休止中、表に出ればいろいろ言われるのは難ちゃんがロックアイコンのなによりの証拠だと思う。そして沖縄のような特殊な環境にスタジオを建て、そこでお子さんも生まれて父親としての責任感も生まれたでしょう。いろんな変化があった時代だと思う。それがTYÜNK(テュンク)に直結してるのかな。最初その音源を聴いたときハイスタとあまりに違いすぎて驚いたんだけど、打ち込み主導のある意味エレクトロをやった理由はなんだったの?
「ひとつ大きな理由があって。まずボクはひとりになった。ヴォーカリストとしてすぐにバンドを組む頭なんかなかったですね。すぐにロックバンドをやれるハズなんてないんですよ。ハイスタ解散ならすぐにやったと思うんですけど、活動休止してるのにほかにバンドをやるなんて、ファンに失礼極まりないと思ってたから。そこでドラムがいない、ギターもいないとなったとき、エレクトロをやるのは自然な流れだった。それを世のなかに出したとき、トチ狂った、なにをやってるんだコイツと言われるのは想定内だった。ボクは他人に認められるために音楽をやってるわけじゃなく、あの音楽があのときの難波章浩の人生だったんです。ハイスタっていうものはボクのなかの一部で、ああいうエレクトロみたいなタイプの音楽を求める、そこで生きてるボクもいる。音楽って自分の人生じゃないですか。エレクトロで、ボクはボクでハイスタじゃない世界を作ろうと思ったんです」

――TYÜNKの後にはなんばあきひろ&宇宙船地球号とかULTRA BRAiNとかいろいろ名義を変えつつ、多少アプローチの違いはあるもいろんなタイプのエレクトロをやってたけど、正直あの頃難ちゃんがなにをやりたいのかがわからなかった。あのときは方向性を定めるというより、ハイスタの復活を待ちながら、自分がやれる世界をとことん追求していこうということだったのかな?
「過程だったんです。過程も見せようと思って。全部。ジョン・ゾーンもそうだけど、当時はP.I.L.も大好きで。ああいうパンクスがテクノに流れていく流れの意味がわかるんですよ。THE CLASHの後期もそうじゃないですか。そういうのも好きなんです。実はULTRA BRAiN は、UKでプチブレイクしたんです。当時UNDERWORLDなどが所属してたイギリスのV2 からULTRA BRAiNの作品をリリースできた。だからハイスタが復活するまでそうやって活動しながら世界にいってやろうと思ってたんですよ(笑)」

――そのエレクトロ時代が過ぎ、難波章浩というソロ名義で始めるじゃない。最初のうちはまだエレクトロを引っ張ってたけど、『PUNK THROUGH THE NIGHT』(2011年)あたりから少しずつパンクロックに寄ってきた。あの頃はどういう心境だったんだろう。
「あの後にすぐハイスタがあったらちゃんと二極化されたんだろうけど、あまりにもハイスタが帰ってこないから。超もどかしいときだったんでしょうね。やっぱりバンドをやりたいっていうのがずっとあったから、イイ加減もうハイスタを待てないとなったのかも。でね、難波章浩っていうのを作ったのは、ソロってこういうことでしょという自分の表現だったんですよ。当時、ソロって言ってみんなバンドをやってたじゃないですか。ソロじゃねえじゃんと思ってた。ソロって自分で全部作ることでしょ、と。そうして、『PUNK THROUGH THE NIGHT』を作るときにサポートギターで今のメンバーのK5がきてくれるわけです。ソロでサポートしてもらい、3回ぐらいステージに立ってもらってる間に、これはもうソロじゃなくなる、バンドになってると感じ、そこから一気にNAMBA69へ向かいました」

――これまでの活動を順を追って音源を聴くと、音楽スタイル的にはあっちこっちにいったりきたりしてるイメージがあるんだけど、これは無意識に?
「最初は本当に、パンクロックバンドはハイスタ以外にやるつもりはなかったです。自分でほかに組んでやるという概念もなかった。だからわざとじゃないですよ、自然になっちゃったという」

<そして今現在、少し未来>

――健ちゃんは独自の世界を作った人だよね。PIZZA OF DEATHはブランドだし、KEN YOKOYAMAはそこの超シンボル。もちろんハイスタもそうだけど。
「いやあもう、PIZZA OF DEATHのシンボルは健くんでしょう。もうハイスタじゃないもん。やるなあと思いますよ、ああいうことって、なかなかできない」

――TYÜNKとか宇宙船地球号、ULTRA BRAiNなどはハイスタのファンからしたら「え?」 となったと思う。だけど音源を残してるわけで、後悔はしてないよね?
「してない、してない。だってボク、自分でレコーディングできるんですよ。ボクは人より先にパソコンを取り入れ、これから音楽もそうなっていくぞと思ってたし。だから明らかにボクの音源と健くんの音源って違うじゃないですか。ボクはパンクロックもいつかボディミュージックになると思ってたんですよ。そしたらFOUR YEAR STRONGといったバンドたちがどんどん出てきて、ボクがやりたいことはこれだと。そういうバンドもいっぱい聴いたけど、ボクのオリジナリティってなんだろ? となったときに、ハイスタ用にとっておいたボクの声の質感とか、そういうのを全部解禁しようと思った。自分のオリジナリティに忠実に生きようと思ったんですよね」

――新ミニ作『LET IT ROCK』はかなりロックしてるよね。ハイスタの再始動がAIR JAMなど特別な形のみの限定的なものという状況が、逆に難ちゃんをNAMBA69やソロ名義の後半からより激しいロックやメロコアの方へ戻してるというところなのかな?
「戻ってるわけでもなくて。もちろんボクにはテクノの部分もあるし、あの時代の曲がいっぱいあるからそれはいつかやろうと思ってるんですよ。ただそこにハイスタというものもあるから。やっぱりボクがハイスタで、ボクはハイスタなんです。本当はハイスタをやりたいんです。だけど自分のなかでNAMBA69がものスゴいバンドになっちゃったんですよ。ふたつのバンドをものスゴくやりたいという状態になってしまった。活動休止した当時はハイスタ以外のバンドをやるつもりはなかったのに、NAMBA69というこの3人組が大好きになっちゃったんです。ボクは今、このバンドをずっとやってやろうと思ってるんです。ハイスタもやるけどNAMBA69もやろうというものになったんです、ここ3年ぐらいで。それはハイスタ活動休止の当時はなかったイメージなんだけど、そんなふうになったんですよね」

――NAMBA69の69はロック?
「そうです。やっぱりロックしたいんですよね」

NAMBA69の『LET IT ROCK』をメインとした取材記事は、現在発行中のGrindHouse magazine Vol92に掲載! 
併せて読んでほしい。




text by Hiro Arishima


シェア